川崎の風俗にも「男性VS男性」のシステムのお店は存在しているのでしょうか

性風俗の中で男性同士については日本においてもかなりポピュラーな扱いを受けており、とりわけ武士同士であれば「衆道」と呼ばれていました。

もともと平安時代から、女人との交わりを禁じられていた僧侶や公家の間で行われていた男色ですが、武士の台頭とともにその文化は武士の中に融合していったのでしょう。

公家などは美少年好みの延長線上に男色もありました。それなりに公家趣味の淫靡なイメージがあります。かの足利義満も、世阿弥を寵愛していたということが有名ですが、それによって才覚を認められたのですから、一つの出世の手段であったことでしょう。

またスパイとして働くために、男色は暫々利用されました。しかし「衆道」に関してはそれとは異なり、始まりは戦場に連れて行っては、女性と同じ役割として閨を共にするといったものだったようです。

戦場は基本的に女人禁制ですから、それも必要性にかられてのことであったでしょう。主従関係を強める上でも用いられました。

これが太平の世となれば「友情以上の結びつき」として、武士道の中に組み込まれてゆきました。「武士道と言うは死ぬことと見つけたり」で有名な武士の心得が書かれた「葉隠」(江戸中期)では、男色について「想いあう相手は一生に一人だけ」といった趣旨のことも書かれ、相手をみだりに変えないことや契りを結ぶまでに5年は相手を見ることといったことまで書かれています。

男女の情愛よりも神聖視していたと考えられます。性風俗というよりは精神論に近い形で認められていた衆道ですが、それも江戸時代の初期には衆道の色恋沙汰で殺傷事件に発展したり、相手のことを主人(殿様など)よりも大切に思うなど、様々な問題が生じてきました。

風紀が乱れるとして、衆道を取り締まる向きもあったのです。それに伴い町人の間で男色が流行るようになりました。性的な嗜好というよりは、男色が粋である、遊び人なら男性女性どちらとも楽しむべきといった風潮が現れ始めたのです。

ただし衆道が全くなくなったわけではありません。特に薩摩藩などはそれが顕著で、明治維新後も薩摩藩が影響力を持っていた海軍では男色が盛んでしたし、衆道がなくなったと言えるのは大正の時代に入ってからだとされています。

日本の性風俗史の上で男色は必ず語られるものですが、キリスト教は固くこれを禁じています。西洋文化が流入するとともに、男色に対する嫌悪や差別が生まれたと考えてよいでしょう。

日本はそもそもにおいて柔軟であったようです。